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149:苦しみの先に…
「苦しみの先には苦しいだけで、なんにもない」というのが、僕の大好きな人が最近教えてくれた言葉です。実はブッダも同じようなことを言っておりまして(というのは多くの方がご存知かと思いますが)、その話はまた後述します。ヨガも「苦行」という観念から大注目された時代がありまして、そのおかげで今日まで残っていたりするんです。
ちなみに「YOGA」という言葉、正式な読み方をすると「ヨーガ」なのですが、皆さまご存知でしたか(ヨーガって、なんだか語感が悪くて言いにくいですよね…)。東急田園都市線の用賀駅の由来は、このYOGA/ヨーガからきているという説もあります。
「ヨガは4,000~5,000年前のもの」と言われることもありますが(ヨガの元になった思想云々はこのあたりが起源です)、もう少し正確に言うと2,600~3,000年前くらいからヨガという手法が登場したとされています。
ヨガの起源の一つに、インド移住によって幻覚作用のある植物が手に入らなくなったアーリヤ人が、「どうにかして意識を覚醒させたい…」ということで、苦行やヨガを発展させたという説があります。「植物の代わりにヨガでキメる…」みたいな、とんでもない理由ですよね…。時代を遡ると、当時のヨガが全然ヘルシーなものではなかったことをお分かりいただけますでしょうか…。
ヨガが登場する以前のいわゆる“ヨガっぽい元型”は、苦行による“強い緊張を伴う精神状態”を生じさせることが目的だったんですよ。先述した「意識をハイにする」のが目的の一つですからね…。このあたりは太古のインドだけでなく、各地で行われていた儀式に共通性が見出せます。インディアンのスウェットロッジと呼ばれる儀式も、熱々のサウナでハイになることを善しとしているそうで。
そんな苦行だったものに対し、今ではヨガは平静な瞑想を本質とし、脱力を伴う精神状態が求められます。何事も行き過ぎては良くないとのことですが、大昔のヨガも例に漏れず、苦行の先に何も見いだせなかったのかもしれません。
この事と関係しているのかは分かりませんが、原始仏教では、息を止めて瞑想をするという、なんとも苦しい瞑想修行をしていたそうです。そんな時代に、かの有名なブッダさんが「苦しい瞑想って意味なくない?」と、無呼吸の瞑想をやめ、逆に、呼吸することに心地よさを感じる瞑想を始めた話があまして、僕はとても好きです。
ヨガの経典とされるものは、どの時代でも、揺れ動く心についてをメインテーマに書かれているのですが、紀元前~紀元後10世紀頃までは「瞑想の為にどのように呼吸するべきか?」から先について書かれているものがほとんどでして、体の動かし方に言及する書はあまりありませんでした(僕が知る限りでは全然ないなぁ…という印象です)。ヨガの書としては、11世紀ごろから体を動かすアーサナについてよく書かれ、15~17世紀にこのアーサナの体系ができたとも言われています。
ヨガの長い歴史の中でも、誰もがヨガを始めやすく、且つ効率的に効果を感じやすくなったことは、なかなか最近のことなのです。さらに言えば、呼吸や瞑想を一旦置いておき、アーサナというヨガのポーズをメインに抽出して、よりエクササイズ要素の強いヨガとして流行したのが1990年代以降なので、一般的にヨガというものが受け容れられ始めたのは、本当に最近の事ですね。
学者肌の方には「ただの健康体操である」なんて揶揄されることのある現代のヨガですが、僕はこれくらいカジュアルに、多くの方が気軽に楽しめるヨガがとても良いと思っております。体を動かすだけで気持ちはスッキリしますし、姿勢が良くなると自然に呼吸もゆったりと落ち着いてきますよね。ただそれだけでも、ヨガの効果として十分だと思っております。
Sahanaメルマガ vol.306(2023年5月)より